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当時の写真と伝聞を元に後世に残しておきます
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   伊勢湾台風による水没の町並みの1コマ。
   昭和34年9月26日。

   これは阿部米店店頭に飾ってあります当時の写真パネルです。

   写真に阿部米店が写っています。


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昭和28年 夏 永徳(現在の稲永5丁目12番・13番地)での一コマ。
この当時の実家の敷地には木板の塀がされてました。


   昭和35年 ダイハツ オート三輪



   昭和32年 冷蔵庫

上段の扉内に氷を入れて下段を冷蔵する。当時は朝一番に氷屋さんが板氷を持ってきて毎日冷してはビールを販売してました。港祭りの時にはビール会社が冷えたビールを配達にきて販売したそうです。



缶詰はエバーミルク(外国製)。コーヒーに入れるフレッシュです。当時はよく売れました。

余談、当時は高価だったバターではなく、マーガリンがよく売れた中、堀川さんだけはバターを購入してたことを今もって驚いてます。


         写真提供  前田酒店
        記事執筆者  前田酒店


写真は昭和17年

父の兄弟の次男 前田茂七(昭和元年生まれ)氏とこの地域では他に港西園芸(服部氏)と服部正義氏の2名、計3名が予科練特攻志願兵になったそうです。

予科練訓練生として招集日に愛知県庁広場に集まり、桜通りを行進して名古屋駅に行き電車で移動。三重県海軍航空隊に所属して奈良県丹波市町(現 天理市)の軍が接収した天理教の建物を訓練生の宿舎としてところに行ったそうです。そこから九州の長崎・天草に配属され、飛行訓練をしたそうです。当時練習用飛行機は水上飛行機だったそうです。なざなら戦闘機は特攻にすでに使われてしまっていたため練習機がなかったそうです。昭和20年5月頃、ここ場所から関東の霞ヶ浦の本隊に移動。そしてこの場所で終戦を向かえたそうです。

※ 父 前田明から写真を見ながら当時のことを記載しています

 平成25年3月14日(木)補正 前田茂七氏ご本人に確認して修正を行いました。



    写真提供 前田酒店
   記事執筆者 前田酒店
         


              






大宮司川です。写真は昭和30年代~40年代の川の様子で、地図は昭和45年のものです。稲永新田と宝神の境目を流れていた大きなため池(用水路)でした。この川では養殖がおこなわれ、また釣堀もありました。稲永新田を開発する時に堤防と灌漑用水が作られて、その用水部分が売り出されたのを当時3家が共同購入したのでした。写真には養殖した魚の死骸が写っておりますが、新田で撒かれた農薬が雨にまじり流れ込み、養殖池の鰡(ぼら)が大量死したときのものです。この被害を当時の保健所に申し立てましたが水稲優先のため取り合ってくれなかったために、岸辺の所有地に埋めたそうです。

稲永新田の開発者は渡辺甚吉氏であり、現在の稲永公園は渡辺甚吉氏が名古屋市に寄付したものです。(名古屋市に寄付した時の条件で、後世、市の住宅用地に転換しない、皆が遊べる憩いの公園にするというものだったと聞いています)



  
     写真提供 前田酒店
    記事執筆者 前田酒店



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